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絵師でたどる妖怪 第二回|河童——水辺のかたちは、どう定まったか

連載 ・ 横串の読みもの

絵師でたどる妖怪 第二回|河童——水辺のかたちは、どう定まったか

頭の皿、背中の甲羅、緑の体。誰もが知る河童の姿は、いつ、どこで定まったのか。連載第二回。

頭の皿、背中の甲羅、緑の体。私たちが「河童」と聞いて思い浮かべるあの姿は、はじめからそうだったわけではない。水辺のかたちは、どこで、誰の筆を通って定まったのか。前回の石燕を起点に、今回は一体の妖怪――河童のかたちの来歴をたどる。

壱 バラバラだった、水の怪

もともと河童は、土地ごとに名前も姿も違った。川太郎、ガタロ、ひょうすべ、えんこう——西へ東へ、水辺のある土地にはたいてい、人を水に引く「何か」の話があった。共通していたのは「水の怪」という核だけで、その姿は語る土地の数だけ揺れていた。

弐 江戸が与えた「かたち」

転機は十八世紀の半ば、江戸に訪れる。山を持たない都市の人びとにも受け入れられるよう、蛙やすっぽんを思わせる両生類めいた河童が描かれ、姿が整えられていった。頭の皿に水をたたえ、背に甲羅を負うあの像を広く定着させたのは、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の力が大きい。続いて葛飾北斎や歌川国芳も河童を描き、その体はしばしば緑にぬられた。蛙の色が、いつしか河童の色になったのだろう。こうして江戸の絵師たちの筆を通り、河童のかたちは十九世紀には全国へ広がっていく。

参 土地に残る、もうひとつの河童

だが、標準化されたかたちの下には、土地の河童が生きている。柳田國男『遠野物語』(一九一〇)が伝える遠野の河童は、顔が赤いという。緑ではなく、赤ら顔。それは、江戸のかたちに塗り替えられる前の、その土地だけの河童の面影である。

かたちは、絵師の筆だけでできているのではない。土地の語りと、それを描きとめる筆の、両方でできている。この媒体が河童を描くときも、石燕たちが定着させたかたちを起点にしながら、遠野の赤ら顔のような、土地の気配を消さずに拾いたいと思う。


主な参照: 鳥山石燕『画図百鬼夜行』(安永五年・一七七六)/柳田國男『遠野物語』(明治四十三年・一九一〇)ほか。原典は国立国会図書館デジタルコレクション等で公開(パブリックドメイン)。諸説ある箇所は断定を避けています。

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