秋の彼岸に川を離れて山へ入り、春には河童へ戻ると伝わる山の童。熊本南部の山あいでは、その名を直接呼ぶことさえ避けられた。
伝承
山では、その名を口にしない。
熊本では山童を、ヤマンタロー、ゴタワロ、ヤマオロシ、ガゴなど、土地ごとにさまざまな名で呼んだ。けれど山中では、ヤマンモン、ヤマンヒト——山の者、山の人というように、直接の名を避ける例もあった。
呼び名が変わるのは、土地が変わるときだけではない。季節が変わると、居場所と名も変わる。
山童が春彼岸に川に入り河童になり、秋彼岸に山へのぼる。
国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」に採録された熊本県の事例要約より。地域によって、春の土用や旧暦二月など、移動の時期と呼び名には違いがある。秋、川にいた河童が山へ上がる。そこで山童と呼ばれる。春になると山を下り、また河童になる。
二つの妖怪が入れ替わるのではない。同じものが、川と山で別の名を持つ。
熊本県立図書館が紹介する資料では、山童の伝承は県南部の山間地帯、葦北・球磨・八代郡の山間部などに分布する。川のすぐ向こうに山が迫る土地で、水辺のものは半年後、山のものになる。

なぜ、この土地で
葦北では、山童は姿を見せるだけではなかった。山仕事の音にまぎれ、人の仕事場へ近づいた。
丸山学が一九五〇年に報告した「肥後葦北のヤマワロ」には、炭焼きのため山中に泊まると、ヤマワロが来て夜通し小柴を折り、仕事を邪魔したという話がある。大神宮の札を持ち帰ると来なくなったともいう。
炭焼きは、炭窯をヤマワロの通り道へ作らないよう用心した。
山童を退治したのではない。先に通っていたものの道を、人の仕事が塞がないようにした。妖怪の話が、山でどこに火を置き、どこを空けて暮らすかという判断にまでつながっている。
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
石燕が山中に置いた、一つ目の姿

鳥山石燕は『画図百鬼夜行』で、山中に立つ山童を描いた。
長い髪、毛深い体、額の丸い目。草木の間に立つ姿は人に近いが、人ではない。山仕事の装いにも、野の獣にも収まらない。
国立国会図書館が公開する本は、安永五年(一七七六)の初板をもとに文化二年(一八〇五)に求板されたもの。石燕の一枚は、山童の図像として大切な手がかりだが、熊本各地の語りがすべて同じ姿を伝えたという意味ではない。
石燕は木版、のちの絵師は墨と筆。わたしたちもまた、いまの筆で。道具は変わっても、向き合う相手は同じ——夜の向こうの、見えないもの。
川の名、山の名
河童なら川にいる。山童なら山にいる。名前だけを並べれば、別々の妖怪に見える。
けれど熊本に残る語りは、季節の境目で二つをつなぐ。秋に川を離れ、冬の山で小柴を折り、春になると水辺へ戻る。
同じものを、居場所によって呼び分ける。その呼び分けは、川と山を別々の世界にせず、一本の往復路として見ていた人々の感覚を残している。
解釈
山童は、季節が妖怪の名を変える話だと思う。
人が暦をめくるより先に、雨の匂い、川の濁り、山の音が変わる。その変化を、河童が山へ上がった、山童が川へ戻ったと受け取る。そうすれば、目に見えない季節の境目にも、通る道と足音が生まれる。
だから山では、本名を呼ばなかったのかもしれない。そこは人だけの仕事場ではない。山の者の道を空け、名を少し遠回しにして呼ぶ。その距離が、同じ山で暮らすための礼儀だったと読みたい。
本文は出典の内容を自分の言葉で要約したものです。原典の長文転載は行いません。異説がある場合は併記し、確認のとれた情報のみを掲載します。記載に誤り・異説をご存知の方はおたよりからお知らせください。
