雨あがりの夜道で、背の低いものが問う。「お前は何奴だ」。短い蓑に破れ傘、とうきびの穂のような尾。答えを誤ると海へ引かれ、潮を飲まされる。徳之島に伝わる、名を問う妖怪。
伝承
夜道で誰かとすれ違うとき、私たちは相手が何者かを、たいてい確かめない。すれ違えば済むからだ。
けれど島の夜道は暗い。灯りがなければ、向こうから来るものが人かどうかも、しばらくわからない。だから声をかける。どなたですか、と。それは礼儀ではなく、確認だった。
徳之島には、先に問うてくるものがいる。
雨あがりの道である。背の低いものが、道の先に立っている。子どもほどの背丈で、短い蓑をまとい、破れた傘をさしている。尻の後ろで、とうきびの穂のようなものが、ゆらり、ゆらりと揺れている。それは片足で跳ねながら、こちらへ来る。そして問う。——「お前は何奴だ」。
徳之島の口承「イッシャ」(語り=平辻朝子/再話=六渡邦昭)の記述より要約問われた者が、とうきびの穂を尻の後ろで振ってみせると、イッシャは仲間だと思い込み、何もせずに行ってしまう。真似られなかった者は、海辺へ引かれていって、潮を飲まされる。山では幾日も迷わされるという。
もうひとつ、漁の話がある。漁師たちはイッシャをおだてて、夜の海へ連れ出した。イッシャは舟を漕ぎ、よく魚を獲る。ただし取り分として、獲れた魚の目を、片方ずつ食う。だから網に上がる魚は、みな片目になっている。
よく働くものが多いが、なかには怠けるものもいて、腹を立てた漁師が海へ放り込んだ、という話も残っている。

なぜ、この土地で
イッシャが降りてくるという犬田布岳は、徳之島の伊仙町、島の北の側にある。二〇一七年、この一帯は奄美群島国立公園に指定された。夜、山から下りてくるものがいる——そう語られてきた山が、いまは守られる森として名を持っている。
同じ伊仙町の阿権(あごん)に、三百年のガジュマルという古木がある。町の観光案内は、この木を「ケンムンが棲むと伝わる」と紹介している。
ケンムンは、隣の奄美大島の妖怪の名だ。つまり徳之島には、イッシャとケンムンが、同じ島のなかに並んで語られている。
徳之島は、奄美大島と沖縄のあいだにある。北にはケンムン、南にはキジムナー。そのあいだの島で、同じようなものが、イッシャと呼ばれてきた。位置がそのまま、名前の並びになっている。
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
絵のない妖怪、という一群がある

イッシャの古い絵は、見つからない。鳥山石燕の四部作にも、竹原春泉斎の『絵本百物語』にも、この名は出てこない。
これは、この妖怪が弱かったからでも、新しかったからでもない。江戸の絵師たちが手本を写し合いながら妖怪の姿を定めていったとき、南の島々は、その輪の外にあったというだけのことだ。絵手本は江戸と上方を回った。海の上を、そこまでは渡らなかった。
隣の奄美大島には、記録がある。名越左源太『南島雑話』——薩摩から遠島になった武士が、島の暮らしを五年かけて書き留めた本で、絵も多い。ただしそこに描かれているのはケンムンであって、イッシャではない。島が違う。だからこの記事では、それを隣の島の、同じ仲間の記録として置くにとどめる。似ているものを、証拠として使わない。
では、イッシャの姿は誰が伝えたのか。言葉のほうである。短い蓑。破れた傘。とうきびの穂の尾。片足で跳ぶこと。——絵を一枚も経ずに、これだけの形が渡ってきた。
絵師の筆を通らなかったぶん、この姿には手本がない。裏を返せば、写し崩れもしていない。
石燕は木版、のちの絵師は墨と筆。わたしたちもまた、いまの筆で。道具は変わっても、向き合う相手は同じ——夜の向こうの、見えないもの。
名前は島の数だけ、癖はひとつ
奄美大島ではケンムン。徳之島ではイッシャ。沖縄ではキジムナー。
姿の説明は島ごとに少しずつ違う。木に棲むもの、山から降りるもの、赤い髪のもの。それなのに、ひとつだけ、そろって同じ癖がある。
魚の目を、片方だけ食う。
この一点があまりによく似ているので、イッシャとキジムナーを同じものと見る立場もある。名前は島の数だけあって、癖はひとつしかない。
島は海で切れている。船を出さなければ渡れない。それでも同じ癖が、名前を変えながら残った。名前は土地のものだが、癖はその一族のものだ、という言い方をしてみたくなる。
そう置いてみると、あの問いの意味が少し変わってくる。「お前は何奴だ」——名前を訊いているのではないのかもしれない。島ごとに名の変わるものにとって、名前は答えにならない。だから尾を振らせるのだ。名ではなく、癖のほうを見せろ、と。
解釈
イッシャは、名を問う妖怪である。「お前は何奴だ」——この問いに答えられるかどうかで、見逃されるか、海へ引かれるかが決まる。
そして答えは、言葉ではなかった。尾を振ってみせることだった。
自分が何者かを名乗るのではない。「こちらもお前と同じものだ」と、体で示す。正面から向き合うのでも、逃げるのでもなく、同じ側にいる素振りをして通り過ぎる。——南の島の妖怪は、退治されない。やり過ごされる。
魚の目の話も、同じ手ざわりがある。イッシャは漁を手伝い、目だけを取っていく。身は残す。片目の魚は、手を貸してもらった証しとして島に残る。奪うのではなく、分け前を先に決めておく。共同で働くときの、約束の形をしている。
本媒体がこの妖怪の入口に差し出す一語は「問い」とした。恐ろしさでも、いたずらでもない。この妖怪がすることは、まず問うことである。
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