旧家の座敷に棲む、子どもの姿の妖怪。いる家には富がもたらされ、去ると家が傾くと伝わる。
伝承
旧家の座敷に棲み、家に富をもたらすという童(わらし)の神。けれどその富は、童子の機嫌しだいで翳ることもあった。遠野・土淵村の山口に、孫左衛門という草分けの旧家がある。そこには童女の姿の神が二人いると、久しく言い伝えられてきた。
この家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく……
— 『遠野物語』第十八(柳田國男・一九一〇/青空文庫=パブリックドメイン)ある年、村の男が留場(とめば)の橋のたもとで、見慣れぬ二人の娘に出会う。どこから来たのかと問えば「山口の孫左衛門のところから」、これからどこへ行くのかと問えば「別の村の、某(なにがし)の家へ」と答えた。さては孫左衛門の世も末か——男がそう思って、まもなくのことである。
孫左衛門の家では、梨の木の根もとに見慣れぬ茸がいくつも生えた。食べてよいものか男たちが評議するのを聞いて、当主は「食わぬがよい」と止めた。けれど下男の一人が「どんな茸でも、水桶に入れて苧殻(おがら)でよくかき混ぜてから食えば中らぬ」と言う。一同はその言に従い、家じゅうがこれを食べた。主従二十幾人が、一日のうちに死に絶えた。
ただ一人、七歳の女の子だけが、その日は外で遊びに夢中になり、昼餉(ひるげ)に帰るのを忘れて難を逃れた。家は跡形もなく傾き、草分けの長者の血も、やがて絶えた。
富をもたらす神は、去るときには家ごと連れてゆく。遠野の山口には、今も水車の小屋が残り、訪ねる人が絶えない。あの二人の童女は——どこか別の旧家の座敷で、今も小さな足音を立てているのかもしれない。

なぜ、この土地で
遠野には、何代も続く旧家が多い。家を絶やさず継いでいくことが、暮らしの重みそのものだった。栄えるも傾くも、その家の運命として受け止めるしかない時代があった。
座敷童子は、その「家運」という目に見えないものに、子どもの姿を与えた存在だ。福が来るのも去るのも、人の手には負えない——その畏れと祈りが、座敷の隅にひとりの童子を住まわせた。
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
絵師が描いた、童子のかたち

おかっぱ頭の子どもの姿——座敷童子のかたちは、各地の伝承と、それを描き留めた絵師たちの筆によって定着してきた。家の神、子どもの神という古い信仰が、その輪郭の底に流れている。
このページの絵も、先人が伝えてきた童子の姿を作り変えず、忠実に踏襲している。新しい造形を発明するのではなく、土地が語り継いだかたちを受け継ぐ。
石燕は木版、のちの絵師は墨と筆。わたしたちもまた、いまの筆で。道具は変わっても、向き合う相手は同じ——夜の向こうの、見えないもの。
諸国の座敷童子たち
座敷童子に似た「家の童(わらし)神」は、遠野だけのものではない。『遠野物語』の語り手・佐々木喜善は、郷里に伝わるこの神を生涯かけて聞き集め、『奥州のザシキワラシの話』(玄文社・一九二〇)に書き留めた。赤ら顔に垂れ髪の、五つ六つばかりの子ども——その姿は、土地ごとに少しずつ違う。
座敷でなく蔵に棲むものは「蔵ぼっこ(クラボッコ)」と呼ばれ、這い回る子という「ノタバリコ」、臼を搗(つ)く音を立てるという「ウスツキコ」など、佐々木は土地ごとの呼び名を書き留めている。名も気配もさまざまだが、芯はひとつ。いるあいだは家が栄え、いなくなれば家運が傾く——家の盛衰を、目に見えない子の姿に託したのである。
東北の旧家の、ひと気のない奥座敷。今もどこかで、小さな足音がするかもしれない。
解釈
座敷童子がいるかどうかは、たぶん問題ではない。家を守りたい、絶やしたくないという願いが、見えない子の姿になった。その家の畳の隅に、誰かがいてくれる——そう思えることが、長い時間を生きる家族の支えだったのだろう。
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