もののけみーつけた YOKAI FOLKLORE
ぬらりひょんの浮世絵

中国 ・ 岡山県 瀬戸内海沿岸(備讃灘・児島湾周辺)

ぬらりひょんぬらりひょん

Nurarihyon (The Slippery, Unexpected One) ・ 掴みどころのない怪(老人の図像/海に浮かぶ玉)

駕籠から降りる、大きな頭の老人。石燕はこの姿だけを描き、一行の説明も残さなかった。瀬戸内では海に浮かぶ玉として伝わる、掴みどころのない怪。

伝承

絵は残っている。けれど、説明が残っていない。ぬらりひょんは、姿が先にあって、意味があとから置かれた妖怪である。

安永五年(一七七六)、鳥山石燕『画図百鬼夜行』に「ぬうりひょん」の名で一図が載る。描かれているのは、頭が異様に大きく後ろへ長く伸びた、髭のない老人。上等な羽織をまとい、駕籠から降りようとしている。ただし石燕は、この図に一行の説明も添えていない。『画図百鬼夜行』には詞書のある図とない図があり、ぬうりひょんは後者にあたる。つまり「何をする妖怪か」は、江戸の絵師自身が書き残していない。さらに古い例もある。元文二年(一七三七)、佐脇嵩之『百怪図巻』に、同じ系譜の老人像が見える。石燕はこの絵巻の系統を参照したとみられ、ぬらりひょんの図像は少なくとも十八世紀前半までさかのぼる。ここまでが、絵として確認できる範囲である。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776・PD)/佐脇嵩之『百怪図巻』(1737・PD) ほかより要約

名の由来は、その姿よりも語感にある。「ぬらり」は滑らかで掴めないさま、「ひょん」は思いがけない・奇妙なさま。掴みどころのなさが、そのまま名になったとみられる(京極夏彦・多田克己の指摘)。名前だけが、この妖怪について確かなことを言っている。

ぬらりひょんの場面

なぜ、この土地で

岡山県の瀬戸内海沿岸には、同じ「ぬらりひょん」の名で、まったく別のものが伝わる。姿は老人ではない。人の頭ほどの大きさの、球状のもの。海に浮かんでいるので捕まえようとすると、すっと沈む。そして少し離れたところにまた浮かび、人をからかうのだという(平川林木「山陽路の妖怪」『自然と文化』一九八四年秋季号)。名は同じでも、江戸の図譜に描かれた老人と、瀬戸内の海に浮かぶ玉は、別々に伝わってきた。掴もうとすると沈み、また浮かぶ——この伝承は、「ぬらり」「ひょん」という語感にそのまま重なる。備讃灘の島影が幾重にも折り重なる海では、波間に浮くものの正体は、たしかによくわからない。

絵の出自

この妖怪の「かたち」は、どこから来たか

説明のない絵が、受け継がれた——図像の系譜

ぬらりひょんの浮世絵

一七三七年の『百怪図巻』から一七七六年の『画図百鬼夜行』へ、大頭の老人という図像だけが、意味を伴わないまま写し継がれた。この媒体の絵も、その系譜に連なるものとして、いまの筆で写している。近代以降に加えられた装いは載せない——江戸の夜と、灯りの届く土間までを描く。

石燕は木版、のちの絵師は墨と筆。わたしたちもまた、いまの筆で。道具は変わっても、向き合う相手は同じ——夜の向こうの、見えないもの。

妖怪を、集めて書きとめた人

岡山は、掴めないものに名をつけた土地であると同時に、それを調べて書きとめた人を生んだ土地でもある。博物学者・佐藤清明は浅口郡里庄町の人で、昭和十年(一九三五)に『現行全国妖怪辞典』を編んだ。全国から妖怪の名を集めて一冊にするという仕事は、まだ妖怪が「調べる対象」になりきっていない時代のものである。いま里庄町立図書館が特設サイトで彼の仕事を紹介している。海に浮かぶ玉を「ぬらりひょん」と呼んだ感覚と、その呼び名を書きとめようとした手つきが、同じ県の内にある。

解釈

いま「ぬらりひょん」といえば、妖怪たちを従える親玉として知られる。夕暮れに他人の家へ勝手に上がり込み、茶を飲み煙草をふかしていく——そんな話も広く語られる。しかし、江戸の絵にも詞書にも、そう書かれた例は確認されていない。石燕は説明を書かなかったし、『百怪図巻』にも同様の記述はない。この像の起点とされるのが、藤沢衛彦『妖怪画談全集 日本篇 上』(一九二九)である。同書がぬらりひょんの図に付した「怪物の親玉」というキャプションが、後年、次第に「妖怪の総大将」という設定として広まったとみられている。つまり、いま私たちが思い浮かべる姿の多くは、江戸の伝承ではなく、近代以降に生まれた解釈である。なぜ「説明のない絵」に、これほど設定が集まったのか。これは推測として書く。石燕が説明を書かなかったから、と考えることはできる。姿だけがあって、意味が空いている。その空白に、後の時代がそれぞれの解釈を置いていった。掴みどころのないものに「ぬらりひょん」という名をつけた土地の感覚と、説明のない絵に総大将という像を与えた近代の想像力は、どちらも「掴めないもの」を扱おうとした点で、どこか似ている。

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書籍
鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集(角川ソフィア文庫) ぬらりひょんの原画が見られる一冊。石燕の全図をおさめた文庫版。ISBN 9784044051013。
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