牛から人の顔をした子が生まれ、数日のうちに先のことを告げて死ぬ。岡山・蒜山の三つの村では、戦後になってもまだ語られていた。
伝承
その牛は、八年前に船で来た。
岡山の北のはし、蒜山。原野を開いて牧草を播き、ニュージーランドとオーストラリアから乳牛を入れたのが昭和二十九年から三十年にかけてのことである。三十一年には組合ができて、牛乳を売りはじめた。それまで牛を飼っていなかった家にも、牛がいるようになった。
昭和三十八年。その蒜山で、牛が人の顔をした子を産んだ、という話が立つ。
牛の腹から生まれた子は、体は牛で、顔が人であった。生まれてまもなく口をきき、これから起こることを告げると、三日ほどで死んだ。告げたことは、必ずそのとおりになったという。
西日本各地に伝わる件の伝承より(江戸期の瓦版・近代の口碑の要約。原文引用ではありません)八束村では、翌年の六月に大きな戦争が起こる、と告げたことになっている。
川上村では、流行り病が出る、と告げたことになっている。
中和村では、大風が吹く、と告げたことになっている。
三つの村は隣り合っている。それなのに、件がどこで生まれたのかも、何を告げたのかも、村ごとに食い違っていた。どの村も、うちの村で生まれたのだと言った。

なぜ、この土地で
件が語られた八束・川上・中和の三村は、いまはひとつになって真庭市の蒜山にあたる。岡山県の北のはし、鳥取との境の高原である。
この土地の話をするのに、牛を外すことはできない。蒜山は、市町村単位でジャージー牛の飼育頭数が日本一の土地になった。昭和二十九年から三十年に牛が入り、三十一年に組合ができ、四十三年には全日本ジャージー共進会が蒜山で開かれている。
件の話が採られた昭和三十八年は、ちょうどそのまん中にあたる。牛が来て八年、共進会までまだ五年。**村じゅうで牛が増えていく、その途中だった。**
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
件は、江戸から明治にかけての獣である

件の記録は、江戸の終わりごろにあらわれる。
文献でいちばん古いほうに属するのが『密局日乗』の文政二年(一八一九)五月十三日の条で、防州上ノ関——いまの山口県上関町——の民家の牛が人面の子を産んだ、と書いている。
天保七年(一八三六)には瓦版が出た。「大豊作をしらす件と云獣なり」。丹後国与謝郡から出たもので、いまは徳川林政史研究所と山口県文書館にある。そこには、件は正直な獣だから、証文の終わりにも「件の如し」と書くのだ、と説いてある。
ただしこれは、後からつけた話だとされている。「よってくだんのごとし」という言い回しは『枕草子』にすでに出てくるので、妖怪のほうが先ではない。瓦版が、売るために縁を結んだのだろう。
慶応三年(一八六七)には錦絵も出ている。「件獣之寫真」。牛の子として生まれ、三日で死ぬ、と書かれている。
この記事に出した絵は、いまの筆で起こしたものである。江戸の瓦版と錦絵は現存しているが、画像として使える形での確認がとれていないので、ここには載せていない。
諸国の件たち
件は西日本に散らばっている。
越中の立山には、文政のころ「くたべ」が出た。名も知れぬ病が流行る、その絵を見た者は逃れられる、と告げたという。件と同じ型で、名だけが違う。
兵庫の西宮、甲山のあたりには、牛女の話が集まっている。但馬では、昭和二十八年に件の話が採られている。
但馬は但馬牛の産地である。蒜山はジャージー牛の産地になった。
**戦後まで件が残っていたのは、牛のいる土地だった。**
解釈
件がいつ生まれたかは、はっきりしない。
だが、**いつ消えたかのほうは、わりにはっきりしている。**
件を追った研究は、この獣の一生をこう見ている。もとは農事の厄除けと豊作祈願にかかわるもので、牛にまつわる信仰と結びつきながら伝わった。やがて世の中の不安がそこに預けられるようになり、**人と牛の関わりが社会のなかで薄くなったことで、ほとんど消えた。**
退治されたのではない。祟りが解けたのでもない。
**牛が、暮らしのそばからいなくなっただけである。**
耕すのが機械になり、運ぶのがトラックになり、牛は牛舎の中の家畜になった。牛の産む子を家じゅうで待つということが、なくなった。待たなくなれば、生まれたものを見にも行かない。見に行かなければ、顔があったかどうかも、誰にも分からない。
蒜山で昭和三十八年まで件がいたのは、そこがまだ、牛の産む子を待つ土地だったからだと思う。
妖怪が消えるのは、退治されたときではない。人が、それと暮らさなくなったときである。
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