山に穴を掘って住み、朝廷に従わなかった者たちを、古い書物は「土蜘蛛」と書いた。名前だけが数百年をかけてひとり歩きし、京の塚から出てくる巨大な蜘蛛になった。
伝承
熱が下がらない。幾日になるか、源頼光は床から起きられずにいる。灯を落とした部屋に、夜ごと、人の丈をこえる僧が立つ。僧は何も言わない。縄を投げて、寝ている頼光を絡めとろうとする。
枕元の刀を抜いて斬りつけると、僧は血の筋を引いて出ていった。
明くる朝、その血をたどって郎党たちが行き着いたのは、北野の社の裏手にある、古い塚だった。
塚を掘ると、四尺ほどの山蜘蛛がいた。鉄の串に刺し、川原に晒した。頼光の熱はその日のうちに引いた。太刀にはのちに「蜘蛛切」の名がついた。
『平家物語』剣巻「蜘蛛切」の記述より要約——けれどこの話には、書かれていないことがひとつある。
なぜ蜘蛛が、京の塚の下にいたのか。

なぜ、この土地で
土蜘蛛という言葉は、妖怪の名より何百年も古い。
『日本書紀』や各地の風土記に出てくる土蜘蛛は、蜘蛛ではない。人である。山野に石窟を掘り、土の穴を住みかとして、朝廷の命に従わなかった土地の首長たち——彼らをそう呼んだ。常陸に七か所、豊後に六か所、肥前に十二か所。名の残る首長は四十五人、うち十四人が女である。書物は彼らを「狼の性、梟の情」と書き、討たれたことを記して終わる。
討たれた者の言い分は、書かれない。書いたのは討った側だからである。
京都は、その名前が最後にたどりついた場所だ。塚に封じられ、太刀で斬られ、串に刺されて晒された。もともと京の外にいた人々の名前が、京のなかで化け物になって決着した。
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
国芳は、なぜ画面いっぱいに妖怪を詰めたか

最も知られているのは、歌川国芳の《源頼光公舘土蜘作妖怪図》。天保十二年(一八四一年)ごろ。画面の左では頼光が眠り、四天王が碁を打っている。右半分には、無数の妖怪が湧いている。土蜘蛛はその奥にいて、糸を垂らしている。
妖怪の一体一体に見覚えのある顔がある、というので、当時の改革政治への風刺ではないかという見方が古くからある。ただし国芳自身が語ったわけではなく、いまも決着していない。
もう一枚、十四世紀の『土蜘蛛草紙』という絵巻がある。こちらの蜘蛛は二十丈。腹を裂くと、千九百九十の人の首が出てくる。
ここに出した色の褪せた一枚は、国芳が彫らせた版そのものである。わたしたちの描き下ろしではない。残りは、いまの筆で起こした。
いまも塚はある
北区の上品蓮台寺に、源頼光朝臣塚と呼ばれる塚がある。土蜘蛛の塚だと伝わる。
七本松通一条上るの清和院の前に、蜘蛛が棲んでいたという塚があった。そこから出た石灯籠の残欠が、いま上京区の東向観音寺にある。
どちらも、行けば見られる。石は黙っている。
解釈
化け物にされた側が、この話にはいる。
土蜘蛛は、退治される順番でしか語られてこなかった。名前をつけたのは討つ側で、絵にしたのは何百年もあとの江戸の人で、どちらも当人たちではない。それでも、穴を掘って住んだ人々がいたことだけは、書物の側がうっかり書き残してしまっている。石窟。土窟。四十五人の首長。十四人の女。
妖怪になるというのは、名前だけが残って、言い分が消えることなのかもしれない。
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