片方だけになった履物が、土間の隅に寄せてある。夜、家の者が寝静まると、それが藁の手足を生やして跳ねまわる。朝には元に戻っている。岩手に伝わる、人を害さない道具の妖怪。
伝承
片方だけになった履物が、土間の隅に寄せてある。
もう片方は、どこへやったか誰も憶えていない。畦で脱げたか、犬が咥えていったか。履物は二つで一組で、片方を失うともう履けない。だから隅に寄せられて、そのまま忘れられる。
——夜、家の者が寝静まったころ、それが動きだす。
履き捨てられた履物が、夜になると動きだす。藁の手足を生やし、土間を跳ねてまわって、夜どおし騒ぐ。朝になると、また元の履物に戻って、隅に転がっている。
佐々木喜善『聴耳草紙』(三元社・1931)所収「履物の化物」の筋より要約唄うとされる文句がある。「カラリン、コロリン、カンコロリン、まなぐ三つに歯二ん枚」。
よく読むと、歯が二枚ある。歯は下駄のものだ。草履に歯はない。
実際、原話で語られているのは下駄のほうである、という指摘がある。「化け草履」という名と、草履の姿は、あとから重なったものらしい。
どちらにしても、人を襲ったという話は伝わっていない。跳ね、騒ぎ、朝には元に戻っている。捨てた側は、翌朝それに気づきもしない。

なぜ、この土地で
遠野の家は、土間が広い。南部曲り家と呼ばれる形で、母屋と馬屋がL字につながり、人と馬と道具が、同じ屋根の下で冬を越す。
その土間には、炉が切ってあることがある。「踏み込み炉」といって、土足のまま火にあたれる炉である。板の間に上がらずに済む。つまり土間は、通り道ではなく仕事場だった。夜に何かが動くとしたら、そこだった。
佐々木喜善は、その遠野の人である。柳田國男に『遠野物語』を語ったあと、自分でも土地の昔話を集めて『聴耳草紙』にまとめた。化け草履の話は、山でも、川でも、峠でもなく、家の中で採られている。
履物は、この土地では消耗品だった。藁で編み、履きつぶし、駄目になれば捨てる。年に何足も作られて、何足も捨てられる。妖怪になったのは、いちばん数の多い道具である。
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
文は下駄、絵は草履

化け草履には、系譜が二本ある。しかも、指しているものが違う。
文は岩手の昔話「履物の化物」。唄に「歯二ん枚」とあるとおり、下駄である。
絵は室町期の『百鬼夜行絵巻』。古びた道具たちが列をなして夜を練り歩く、あの絵巻に、藁の手足を生やした藁草履がいる。こちらは草履である。
絵巻の道具たちは、壊れて捨てられたものばかりだ。中世の人は、道具が古びることを「壊れる」ではなく「魂が入る」と見た。百年を経た器物は化ける、という考え方である。
近代、この二つが一つの名で結ばれた。岩手の下駄の昔話に、絵巻の草履の姿があてがわれ、「化け草履」として広まった。名前と姿と唄が、それぞれ別の場所から来ている妖怪である。
本記事の絵は、絵の系譜のほう——つまり藁草履の姿で描いた。いまの筆で。
石燕は木版、のちの絵師は墨と筆。わたしたちもまた、いまの筆で。道具は変わっても、向き合う相手は同じ——夜の向こうの、見えないもの。
捨てられた道具が化ける、という一群
古びた道具が化けるものを、まとめて付喪神(つくもがみ)と呼ぶ。百年を経た器物には魂が宿る、という中世の考え方が下敷きにある。『百鬼夜行絵巻』の行列は、その一群の見本市のようなものだ。琵琶、琴、鍋、釜、五徳、傘、そして草履。
本媒体には、もう一体、道具から出た妖怪がいる。鹿児島の一反木綿だ。あちらは夜道で人の顔を覆う布——同じ道具でも、気性が正反対である。
布は人を襲い、履物は跳ねるだけで朝には戻る。道具の妖怪が何をするかは、その道具が暮らしの中でどう扱われてきたかに、案外そのまま似ている。
解釈
道具は、壊れてから化けるのではない。片方になってから化ける。
履物は必ず二つで一組で、片方を失った瞬間に、まだ何ともないのに用をなさなくなる。穴も開いていない、緒も切れていない。ただ、相手がいない。それだけで捨てられる。
絵巻の行列に並ぶ道具のなかで、履物はいちばん安い。琵琶のように惜しまれもせず、鍋のように長く使われもしない。惜しまれずに捨てられたものが、いちばん賑やかに跳ねる。
そして化け草履は、人を害さない。恨みの筋がない。復讐もしない。夜のあいだ跳ねて、朝には戻っている。本媒体がこの妖怪の入口に差し出す一語は「戯れ」とした。害をなさないことが、この妖怪の性質である。
名前も、姿も、唄も、出どころがばらばらのまま一体になった。片方をなくした履物が、別のところから来たもう片方と組んで、いま一足になっている——そう思うと、この妖怪の成り立ちそのものが、化け草履の話の続きに見えてくる。
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