古い社で伏し拝む女に声をかけると、振り向いた顔には目も鼻もなく、黒い歯を見せる大きな口だけがあった。『絵本百物語』に描かれた妖怪。
伝承
女は、古い社の前で伏し拝んでいる。
通りかかった者は、その後ろ姿を見て声をかけた。女が振り向く。そこに目も鼻もない。顔にあるのは、大きな口だけだった。
或人古き社の前を通りしに、うつらかなる女の伏拝みに居たれば戯れて云いて過ぎんとせしに、彼女の振りむきたる顔を見れば、目鼻なく口斗り大きくて、げらげらと笑いしかほ、二目と見るべきやうもなし。
桃山人『絵本百物語』「歯黒べったり」より。女は追いかけない。噛みつきもしない。声をかけられて振り向き、げらげらと笑う。話はそこで終わる。
原文の題は「歯黒べったり」。いまは「お歯黒べったり」の名でも知られる。絵をよく見ると、白い顔から目と鼻だけが抜け落ち、口もとに黒い歯が残っている。
人に危害を加えたとは書かれていない。けれど、その顔は二度と見られないほどだったと記されている。

なぜ、この土地で
書かれている場所は、「古き社」の四文字だけである。
どこの国か、どの町か、社の名は何か。何も記されていない。土地を特定する目印は消され、石段と柵と木立だけが残る。
その代わり、女が何をしていたかは、はっきりしている。伏し拝んでいた。通りすがりの者には、社へ手を合わせる一人の女に見えたからこそ、戯れに声をかけることができた。
怪しい場所に怪物が待っていたのではない。どこにでもありそうな古い社で、人らしい所作をしていたものの顔だけが、人ではなかった。
土地の名がないぶん、この話の「古き社」は一か所に閉じない。日が落ちかけた社の前なら、どこにでも置ける舞台になっている。
絵の出自
この妖怪の「かたち」は、どこから来たか
黒い歯だけが残った顔

「歯黒べったり」は、桃山人の『絵本百物語』に収められ、竹原春泉斎が描いた。
原画の女は、白い布を頭に巻き、花の着物で社の前に膝をつく。この白布は角隠しのようにも見える。けれど、本文は女を花嫁とも既婚者とも書いていない。絵にあるのは、社へ参る装いと、黒い歯を見せる口である。
国際日本文化研究センターは、お歯黒が怪しいものと結びついた例として、この「歯黒べったり」を挙げている。黒い歯そのものは、当時の暮らしにあった化粧だった。日常のしるしが、目も鼻もない顔に一つだけ残ることで、妖怪の名になった。
石燕は木版、のちの絵師は墨と筆。わたしたちもまた、いまの筆で。道具は変わっても、向き合う相手は同じ——夜の向こうの、見えないもの。
解釈
この妖怪は、顔へ何かを足して作られていない。
目をなくし、鼻をなくす。最後に口だけを残す。その引き算で、人の顔は化物になる。
しかも、体はまだ拝んでいる。手を合わせ、膝をつき、きれいな着物を着ている。人らしさが崩れるのは顔だけだ。だから振り向くまでは、誰にも見分けられない。
お歯黒べったりが見せるのは、知らない怪物の顔ではない。人の顔から、見慣れたものを二つ抜いた顔である。
声をかけた者は、その一度で懲りた。「二目と見るべきやうもなし」。もう一度は見たくないという言葉だけが、笑い声のあとに残っている。
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